シリーズ黒岩探訪

黒岩探訪web版

晴れのち曇り シリーズ黒岩探訪21 黒岩小周辺の気候の特色(冬の気温編1)

シリーズ黒岩探訪21 黒岩小周辺の気候の特色(冬の気温編1) → 21huyunokionnhen1.pdf

 黒岩小学校周辺は、朝の気温が一ノ宮バイパス付近と比較して3~4度くらい、富岡地区と比較して2度くらい下がることがあります。

 ー5℃より低くなると学校裏の星川の表面が全面的に凍ります。写真は12月18日の朝です。この朝は学校の百葉箱の自記温度計の記録では、ー7℃まで下がりました。

 次の写真は12月14日の朝のものです。学校の南側土手の湧水地で流れ出た水が凍った様子です。この日はー5℃近くまで下がりました。

 黒岩小周辺の気温の特徴についてまとめてみました。詳しくは上のPDFファイルをご覧ください。

一 朝の気温がとても低い。

二 昼の気温が高い。

三 一日の気温較差がとても大きい。

四 15~19時にかけて一気に気温が下がる。

五 21時から夜明けにかけて継続的に下がる。

 「五」は放射冷却現象によるものですが、黒岩小周辺はこの現象が顕著に現れるようです。一般にこの現象は次のような時に、より強く現れます。

①よく晴れた夜(星空ということ)

②風がない夜

③山地よりも低地の平野部

④盆地状の地域

 黒岩小周辺はこの④の地形の影響が大きく関係していると思われます。

 また、この現象が現れた朝「煙がたなびいている様子」(写真)を観察することができます。

 

 次のグラフは小学校で初氷を観察した11月20日から1週間の気温グラフです。青の太線が小学校の気温記録、緑線が下仁田町西野牧のアメダスの気温記録、点付きの黒細線が前橋のアメダスの気温記録です。

 前橋が氷点下を記録するかなり前から学校では氷点下の朝を迎えていることがわかります。

 また、県央部の前橋市や山間地の下仁田西野牧に比較して1日の中での気温較差が大きいことが特徴といえます。

 この図を拡大するには次のPDFファイルをクリックしてください。

 → kionngurahu.pdf

【ふるさと学習プログラムとの関連】

5年(理科、天気と情報)

鉛筆 シリーズ黒岩探訪20 黒岩小学校の歴史

シリーズ黒岩探訪20 黒岩小学校の歴史 → 20kuroiwasyounoreksi.pdf 

出典:国土地理院ウェブサイト(http://maps.gsi.go.jp/)の空中写真データ(1974~1978)

昭和50年前後の写真です。

昭和9年10月15日落成式~昭和55年度(昭和56年3月)まで使用された旧校舎が写っています。

現在の校舎位置は、第2グランドになっています。

旧校舎落成式(昭和9年10月15日)

左は、加藤黒岩村長。右は、畑 校長。

現在の校舎

右 シリーズ黒岩探訪19 辻の道標(道しるべ)

シリーズ黒岩探訪19 辻の道標 → 19tuzinomitisirube.pdf

 下黒岩の三叉路の信号脇に道標があります。道路の拡張工事の際移動されて、向きは合っていませんが、四角柱の4面中3面に地名、1面に建立年月と建立者名が記されて(彫られて)います。

 

 

 

道路に面した側に次の字が書かれています。

変体仮名ですので読みづらいでしょうが、書いてある字は「とみおか」です。漢字を当てると「登美遠可」です。さらに一文字この下に続くようですが判別できません。

この面の左側には次の字が書かれています。

これは「あんなか」です。漢字では「安无奈加」です。さらにこの下に「道」がありそうですので、「あんなか道」となりそうです。

この面の反対側には次の字が書かれています。

これは「いたはな」です。漢字では「以多者奈」です。その下に「道」がありそうですの、「いたはな道」になりそうです。

残る1面です。

「明治29年10月建 藤岡町・富?町 藤三堂 栗原 同 金」まで読めます。下は埋まっていますが、建立者は藤岡町と富岡町?に縁のある「藤三堂」という屋号らしきものをもつ「栗原○○」という方と同じく「栗原金○○」という名前の二人と想像できます。

 道しるべが建つということは、交通の要衝であるという印です。この道しるべは明治時代ですが、それ以前にもあったかもしれません。江戸時代から、富岡より北方向の中仙道に抜ける場合、宿場町の板鼻か安中を目指すことになります。下黒岩で方向を間違わないためにここに道しるべがあることは重要だったと思われます。

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(社会、学校のまわり)

 6年(国語、日本で使う文字)

笑う シリーズ黒岩探訪18 佐藤茂助翁と二宮金次郎像

シリーズ黒岩探訪18 佐藤茂助翁と二宮金次郎像 → 18mosukeoutokinnzirouzou.pdf 

 校庭に建つ二宮金次郎像のことが少しわかりました。

4月9日 シダレザクラの下の二宮金次郎像

 

 

 

台座の裏に下の写真のように刻まれています。

 分かりづらいですが、「皇紀二千六百年記念 寄贈 佐藤茂助」と書かれています。年は西暦に直すと1940年、昭和15年です。

 黒岩小学校が今の公民館とそのグランドにあった時に、佐藤茂助様という方が寄贈してくれたことが分かります。

 では、その方はどんな方だったのでしょうか?この像の由来と佐藤茂助氏について上黒岩出身の方が調査に訪れた時、一緒に調べてみました。

 黒岩小学校の西隣の遍照寺墓地内に、佐藤氏の胸像が建っていました。

 台座には次の碑文が刻まれています。

佐藤茂助翁碑文.pdf

佐藤茂助翁は、明治11年4月群馬県北甘楽郡黒岩村に生まれ、同32年志を立て石材工業界に入りその業の指導開発に一身をささげ、あるいは機械的操作の工夫にあるいは優良職工の養成に翁独特の創造力と義侠心とを発揮せるのみならず、更に建築用材をして現今帝都に重きをなせるものにして翁の山谷を跋渉(ばっしょう)して苦心踏査の結果発見せられたるもの枚挙にいとまからず。東宮御所、横浜税関、帝室博物館、大蔵省新庁舎等多数の模範的石造建築物にして翁の関係して心血を注げるもの少なからず。ここに翁の還暦を迎ふるにあたり親友知己並びにその薫陶を受けたる者、相図りて寿像を建設してもって謝恩の意を表するものなり。

 昭和13年4月建之 県会議員 田村靜明 書之

 

 佐藤氏は、この文から、都内の大きな建造物にも関わるほど石材業で活躍された方ということがわかります。学校に来訪された方によると、佐藤氏は南牧村の石材産地である南牧村磐戸の椚地区の椚石に関わっていた方ということです。

 また、大日公園入口には次の門柱が建っています。

写真左の「大日公園」の裏には、「佐藤茂助翁壽像建設紀念」(紀は糸へん)

写真右の「黒岩山」の裏には、「昭和十三年四月吉日」と記されています。

 この門柱も階段の石も、二宮金次郎像及び台座の石もみな椚石です。

 明治時代に建てられた建造物の中には、この椚石を使用している建物があります。どのくらい佐藤茂助氏が関わっていたかは不明です。

 学校では、学校の二宮金次郎像は佐藤茂助氏が昭和15年に寄贈してくれたものであり、その方の像が学校横に建っていることを伝えていきたいと思います。

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(社会、学校のまわり)

1年(生活科、がっこうたんけん)

電車 シリーズ黒岩探訪17 デキ型電気機関車2号機

シリーズ黒岩探訪17 デキ型電気機関車2号機 → 17dekigatadennkikikannsya.pdf

 黒岩地区には鉄道が通っていません。先日の6年生の修学旅行では、安中駅を乗降駅として利用しました。したがって、黒岩地区は鉄道に縁が無いと思いがちですが、一つだけ鉄道関連のものがあります。

 それが、デキ型電気機関車2号機です。

 市立美術館の屋外展示スペースに保存設置されています。美術館の住所は黒川地区ですが、設置されている番地は上黒岩です。

 富岡市指定重要文化財になっています。黒岩地区のこの他の指定重要文化財は県指定のオオツノシカ関連のもの(黒岩探訪6)と、市指定の正嘉銘板碑(黒岩探訪4)と本件の合計三件です。

【ふるさと学習プログラムとの関連】
3年(社会、学校のまわり)

美術・図工 シリーズ黒岩探訪16 遍照寺・大日尊

シリーズ黒岩探訪16 遍照寺・大日尊 → 16dainitison.pdf

 黒岩地区、黒岩小学校にとってとても関連深い遍照寺とその大日堂。

 校内絵画展の取組で五年生が大日堂と仁王門をテーマに絵を描いています。

黒岩かるたでは「あまちゃでにぎわう黒岩大日尊」

校歌一番で「みどりに明けて ゆく朝の 大日尊の 杜しずか」

 と歌われています。

黒岩探訪11で取り上げたように黒岩小学校は明治七年遍照寺に設立されたのが始まりです。

 

大日堂

大日堂の縁の下をくぐるとハシカが軽くすむといわれています。

真下の根太(ねだ)には大きなこぶがあり磨かれて光っています。

仁王門

  開口の阿形(あぎょう)像

  口を結んだ吽形(うんぎょう)像

大日如来像

大日如来を表す梵字の石造物 (梵字は「अ 」読み方は「ア」)

 

 

星 シリーズ黒岩探訪15 盛んだった黒岩村の養蚕業

シリーズ黒岩探訪15 盛んだった黒岩村の養蚕業 → 15kuroiwanoyousanngyou.pdf

 4年生が総合的な学習の時間で養蚕体験に取り組み、先日約300個の繭を出荷しました。今回4年生は、半分ほど家に持ち帰って飼育し、まぶしも手作りしました。

【盛んだった黒岩村の養蚕業】 

この資料の説明

  著書名:大日本蚕業家名鑑

  著者:齋藤兵次郎

  刊行:大正2年12月

  発行所:扶桑社

 この著書の中に、収繭量三石以上の養蚕家が掲載されているページがあります。その中の旧黒岩村にあたるところを掲載しました。数字は収繭石数を示しています。 この場合の一石は十貫目=37.5kg、十石で375kgということです。

 黒岩地区で養蚕が盛んだったことが分かる貴重な資料と思い、ここに掲載させていただきます。

 明治期の製糸業のもとを支えてきた方々です。ご近所やご先祖でご存じの方がいらっしゃるでしょうか?

【ふるさと学習プログラムとの関連】
4年(総合的な学習の時間)  

 

お知らせ シリーズ黒岩探訪14 機足百庚申

シリーズ黒岩探訪14 機足百庚申 → 14hyakkousin.pdf 

今年の運動会での一コマ

 これは高学年の組み体操の中の一場面です。今年度、黒岩カルタの題材から八つの札を取り上げ表現しました。

 この札は「ねがいこめ百庚申の行者塚」の百庚申を表しています。

 「庚申」「庚申塔」「百庚申」等の説明は、上のPDFファイルをご覧ください。

機足百庚申(写真は富岡市文化財保護課提供)

 富岡霊園に続く上(南)の小高いところにあります。現在は草に覆われていて確認できません。

 一箇所に百基前後の庚申塔が集まる所を「百庚申」といい、富岡市には、中高瀬や田篠にも見られます。黒岩の機足百庚申は、二番目に数が多く109基の庚申塔が建てられています。

 次の2枚の写真は、平成22年11月23日の「文化財ウォーク」の場面です。(富岡市文化財保護課提供)

 

 建立年が分かっているものに、享保4年(1719)、寛政6年(1794)、寛政9年(1797)、寛政12年(1800)、文政7年(1824)、天保7年(1836)があります。また、記名されたなかに勅使河原姓や野口姓があり、この地区のご先祖がしのばれます。

 地区の中に表現できるものがあり、また、それを表現できる機会があることの素晴らしさを感じた運動会でした。

 なお、読み札にある「行者塚」について、学校にある昭和60年作成の札の説明には、「”えんの行者"を祭った塚とも言われ、この塚にも、行者「了園」の祈願した供養塔もある。とありますが、今のところ確認できていません。この言い伝えや文献についてご存じの方がいましたらお知らせください。

 

【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(総合的な学習の時間:黒岩カルタ)

3年(社会:学校のまわり)

学校 シリーズ黒岩探訪13 ユリノキ

シリーズ黒岩探訪13 ユリノキ → 13yurinoki.pdf

黒岩小学校のユリノキ

 校庭西側のサッカーゴール裏に2本、校庭南側に2本、合計4本あります。4階音楽室から見るとほぼ同じ高さのものとそれ以上のものがあります。樹高は10数メートル~20メートルと推定されます。

 

花は5月下旬に咲きます。

 

 

 

 花が似ていることから、チューリップ・ツリーともよばれるそうです。また、葉が半纏(はんてん)に似ていることからハンテンボクとも呼ばれるそうです。

 北アメリカ原産の樹木で、日本では明治時代になってから公園等に植樹されるようになったそうです。

 本校に植えられることになった経緯等ご存じの方がいましたらお知らせください。

 

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(総合的な学習の時間:里山図鑑をつくろう)

1年(生活科:あきとともだち)

シリーズ黒岩探訪12「真っ白な南極めざす本多艦長」

シリーズ黒岩探訪12「真っ白な南極めざす本多艦長」→ 12honndakantyou.pdf

校長室に「『ふじ』南極航海記」という本があります。

発行:昭和41年9月30日

発行所:朝日新聞社

著者:本多敏治

 本多氏は、黒岩カルタに標題のようにうたわれている、黒岩地区の偉人です。昭和60年度には当時の6年生が11枚からなる紙芝居にまとめています。

 略歴

 大正5(1916)年、上黒岩生まれ

 旧制富岡中学校(今の富岡高校)卒業

 昭和40(1965)年、第7次南極観測船艦長(初代「ふじ」艦長)

 昭和42(1967)年、第9次南極観測船艦長

 その後、海上幕僚監部南極観測支援室長

著作「『ふじ』南極航海記」より

 蜜氷群を進む「ふじ」

定着氷に接岸した「ふじ」の荷下ろしを見学するペンギン 

 

南極(オングル島)に立つ著者

南極の昭和基地

同行した特派員が著者の人生観を感じた講義の言葉

 「決して急いではならない」

 「自然に逆らうな」

 「自然を尊敬せよ」

 「ただし自然を恐れてはならない」

同特派員が感銘する著者の力

 「勝負所の蜜氷群突破の際、二晩一睡もせず頑張り通した芯の強さ」

 「東西冷戦下、ソ連の基地訪問をさらりとこなす実行力」

 

続きは校長室に伝わる本多氏の寄贈品についてです。

  

続き

 本多敏治氏からの寄贈品

第7次隊の後、寄贈された南極の石と写真 

 

 箱書きには「南極の不二石 含石榴石変成岩」と書かれています。

 これについて、国立極地研究所 南極・北極科学館(東京都立川市)に問い合わせてみたところ次のような説明を受けました。

 南極の昭和基地周辺から持ち帰った石は、だいたい片麻(へんま)岩である。白い所は、石英・長石・雲母で、中に透き通った赤紫色の結晶があるとそれを石榴(ざくろ)石が入った片麻岩と言っている。磁石がつくのは黒い岩片に鉄分が含まれれているためである。

 肉眼では、石榴石は確認できませんが、30倍のルーペ式顕微鏡で覗くといくつかそれらしきものが確認できました。

 (表)

 第9次隊の後、寄贈プレート(裏)

 

 石は、校長室に展示してあります。ご覧になりたい方は来校した折、校長室にお寄りください。

 

【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(総合的な学習の時間:黒岩カルタ)

6年(理科:土地のつくり)

3年(総合的な学習:黒岩はかせになろう)