シリーズ黒岩探訪

2018年9月の記事一覧

NEW シリーズ黒岩探訪36 オオツノシカの化石骨② 附-出土記念碑、鑑定書、出土記録-

シリーズ黒岩探訪36 オオツノシカの化石骨② 附-出土記念碑、鑑定書、出土記録- → 36ootunosikanokasekikotu2.pdf

 夏休み中の職員研修で特別に本物を見させていただきました。これが二万年以上も前に生きていた生物の化石で、発見されてから二百年以上たっているとは思えないくらいとても保存状態のよいものでした。(下の写真は『富岡市の文化財』より)

 オオツノシカの化石骨は、群馬県の指定文化財になっていますが、それにはその出土記念碑、鑑定書及び出土記録が一緒についています。

 このオオツノシカの化石骨そのものについては、すでに黒岩探訪6(昨年6月22日号)で述べています。「オオツノシカの化石骨」→ 6ootunosika.pdf 

今回は、他の3点について記述します。

【オオツノシカ化石骨出土記念碑】

上黒岩打越の発見現場の近くに建てられています。寛政10年(1798)の建立です。側面には寛政9年6月24日に発見されたことが刻まれています。

 上黒岩の打越にあります。案内の看板もあります。

【オオツノシカ化石骨鑑定書】(『富岡市の文化財』より)

幅50㎝、長さ7m以上の巻物になっています。発見から三年後の寛政12年に書かれました。幕府老中松平定信の侍医であった丹波元簡が鑑定にあたり、絵師の谷文晁の実弟の谷元旦が原寸大の写生図を作成しました。(中略)鹿の一種に似ていると指摘しています。

【オオツノシカ化石骨出土記録】(『富岡市の文化財』より)

幅18㎝、長さ2m強の巻物で、七日市藩士大里頼雄の著作を後に本多和太吉が書き写したというもので、原本・写しとも製作年代は分かりません。化石骨は6月24日の土砂崩れで発見され7月17日には藩主の前田利以に献上されたことや、出土地付近は過去にも度々土砂崩れが起きていたことが記されています。この他出土地の絵図、化石骨の略図なども書かれています。

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(社会、古くからつたわるもの)

3年(総合的な学習の時間)

6年(総合的な学習の時間)  

 

 

シリーズ黒岩探訪35 古墳-黒岩地区の古墳と富岡5号古墳出土埴輪

シリーズ黒岩探訪35 古墳-黒岩地区の古墳と富岡5号古墳出土埴輪- →  35kohun.pdf

 平成29年群馬県教育委員会発行『群馬県古墳総覧』によると富岡市には、現存・消滅を合わせて全部で古墳が649基ある(あった)ことが報告されています。(18基の旧北甘楽郡福島町分を含む。)

 黒岩地区分はその内5基だけですので、市内の中では古墳数は少ない地域です。 

 その5基は昭和10年に分布調査し昭和13年にまとめられた『上毛古墳総覧』ですでに報告されています。

 これによると一つ目は機足塚(参照黒岩探訪8)のことです。

二つ目は上黒岩新田にあるとされていますが、現存しているかは不明です。

三つ目は上黒岩にあり、所有が黒岩神社となっています。備考欄に「石棺出デシトイフ」とあります。

四つ目、五つ目は下黒岩にあり、備考欄に書いてあることから「他二同様ノモノ」が4基あったとことがわかります。おそらくその位置は、小字の「田中前」またはこれに接する「谷津」と思われます。学校から見ると南東にあたります。山に向かう所に下の写真のように石室の石材と思われる石が露出している塚があります。形状からほぼ古墳に間違いありません。

 校区ではありませんが富岡五号古墳出土の埴輪を紹介します。

 この古墳は西小学校の校庭拡張整備のため昭和43年に発掘調査された後なくなりました。この古墳は六世紀中頃の直径30mほどの比較的大きな円墳とされています。

 ここから出土した埴輪はとてもすばらしいもので富岡市指定文化財になっています。市立美術館の2階に展示されています。

左から、女子、男子、馬飼〔農夫〕、靭(ゆき)、鞆(とも)、太刀(たち)

【ふるさと学習プログラムとの関連】

6年(社会、日本の歴史)

6年(総合的な学習の時間)