大日尊の 杜しずか
通い馴れたる この径は
学びの庭へ つづく径
ああ晴ればれと 今日もゆく
われら 黒岩小学生
果てなく青い 空仰ぐ
瞳はいつも 澄んでいる
清く心に 輪をかいて
ひろがる望み 美しく
ああひとすじに 学びゆく
われら 黒岩小学生
学び舎めぐる せせらぎの
しぶきに濡れる 黒土よ
からだ鍛えて 次の世を
荷負うぼく達 わたし達
ああ健やかな 頬匂う
われら 黒岩小学生
鈴木 比呂志(すずき ひろし)
1921年(大正10年)5月28日群馬県(現富岡市)に生まれる。父は、明星派の歌人(国文学者)の鈴木旭山(与謝野鉄幹、晶子の門下)。5歳の時から万葉集、伊勢物語、つづいて12歳からは源氏物語湖月抄を、父より伝承する。その後は、独学で古典を研修する。13年かけて源氏物語を現代詩訳し、昭和62年講談社より出版する。源氏物語享受史上の画期的偉業(早稲田大学教授中野幸一序文)と評される。鈴木氏の詩業は、作曲家の山田耕筰氏、服部良一氏と共に創り上げた、交響楽のための詩や500余の市歌、校歌を創るなど広範囲に及んでいる。富岡市立西中学校の校歌も鈴木氏の作品である。
八洲 秀章(やしま ひであき)
1915年(大正4年)6月2日北海道虻田郡真狩村出身。本名鈴木義光。 21歳で上京し、YMCAのオラトリオに参加。その後、山田耕筰氏に師事。 1937年(昭和12年)、「詩と歌謡」に投稿した「漂泊の歌」が同年ポリドールで東海林太郎の歌声でレコード化され作曲家デビュー。作曲家として活動を始めるが、2年後肺結核に発病し療養を余儀なくされる。1940年(昭和15年)6月、伊藤久男の「高原の旅愁」で復帰。 「さくら貝の歌」、「あざみの歌」、「毬藻の唄」を作曲したことで知られる。「あざみの歌」は、自身の歌唱で1949年(昭和24年)8月8日からラジオ歌謡で1週間放送し、その後、のど自慢等で歌われるようになり、1951年(昭和26年)、伊藤久男の歌唱でレコード化された。一時期、志摩光一の名で歌手活動を行っていた。その後は、日本音楽著作権協会評議員、日本作曲家協会理事などを務めた。1985年(昭和60年)12月30日死去。享年70。
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インフルエンザ療養報告書
新型コロナウイルス感染症療養報告書
治癒証明書