シリーズ黒岩探訪

黒岩探訪web版

お知らせ シリーズ黒岩探訪 バックナンバーの紹介

「シリーズ黒岩探訪」バックナンバーの紹介

目次 青字「黒岩探訪〇〇」をクリックしてください。)

 黒岩探訪48 →310322 黒岩かるた小冊子 をよろしく

 黒岩探訪47 →310313 共和公会堂の石造物

 黒岩探訪46 →310227 石造物集中地区 

 黒岩探訪45 →310213  寒中の候

 黒岩探訪44 →310129  黒岩の地層・地盤

 黒岩探訪43 →310107  黒岩小のお宝 黒岩かるた

 黒岩探訪42 →301221  黒岩小のお宝 黒岩地区の紙芝居八冊

 黒岩探訪41 →301214  黒岩の小字名4「畑」関係

 黒岩探訪40 →301127  おおかみの霊を祭った新田山神様

  黒岩探訪39 →301113  黒岩の小字名3「川・用水」関係

 黒岩探訪38 →301029 黒岩の小字名2「十王山」

             小字名「十王山」と名所「城山」    

   黒岩探訪37 →301012 砂田西の石造物群

 黒岩探訪36 →300926 オオツノシカの化石骨② -出土記念碑 鑑定書 出土記録-

 黒岩探訪35 →300912 古墳 -黒岩地区の古墳と富岡5号古墳出土埴輪-

 黒岩探訪34 →300827 黒川小塚遺跡-弥生時代のお米-

 黒岩探訪33 →300720 昭和10年の大水災

 黒岩探訪32 →300711 民話・語り部かぶらの里

 黒岩探訪31 →300628 ホタル観賞の夕べ

 黒岩探訪30 →300612 蚕神「絹笠大神」

 黒岩探訪29 →300529 黒岩の小字名1「谷津」「田」

 黒岩探訪28 →300515 富岡しゃくやく園

 黒岩探訪27 →300427 黒岩大日尊の石造物

 黒岩探訪26 →300323 黒岩村の(小)字名 

 黒岩探訪25 →300312 吾妻の「黒岩」姓

 黒岩探訪24 →300227  赤城神社・黒岩神社

 黒岩探訪23 →300209もえ上がる 炎にねがう どんど焼き

 黒岩探訪22 →300126 黒岩小周辺の気候の特色(冬の気温編2) 

 黒岩探訪2号関連 →300123『高林城で確認した遺物「かわらけ」について』

 黒岩探訪21 →300109 黒岩小周辺の気候の特色(冬の気温編1)

 黒岩探訪20 →291222 黒岩小学校の歴史

 黒岩探訪19 →291212 辻の道標

 黒岩探訪18 →291128 佐藤茂助翁と二宮金次郎像

 黒岩探訪17  →291114 デキ型電気機関車2号機

 黒岩探訪16  →291027 遍照寺・大日尊

 黒岩探訪15  →291013 盛んだった黒岩村の養蚕業 

 黒岩探訪14  →290926 ねがいこめ百庚申の行者塚(機足百庚申)          

 黒岩探訪13  →290913 ユリノキ

 黒岩探訪12  →290828 真っ白な南極めざす本多艦長 

 黒岩探訪11  →290815   黒岩小学校の沿革

 黒岩探訪10  →290720 黒岩つつみ 及び 谷津 2

 黒岩探訪  9   →290718 黒岩つつみ 及び 谷津 1

 岩探訪  8   →290711 機足の由来を語る織姫塚

 黒岩探訪  7  →290627 養蚕の面影残す北村家

 黒岩探訪  6  →290622 オオツノシカの化石骨

 黒岩探訪  5  →290612 西毛自動車教習所

 黒岩探訪  4  →290529 正嘉銘板碑

 黒岩探訪  3  →290515 火山豆石 あまだれ石

 黒岩探訪  2  →290425 高林城

       →290616 高林城  追加記事

                        →300123  黒岩探訪2号関連『高林城で確認した遺物「かわらけ」について』

 黒岩探訪  1  →290410 北甘楽郡史 本多亀三氏

 黒岩探訪掲載にあたって

 各ページを見る場合、青字「黒岩探訪〇〇」をクリックしてください。

 その上で、もとの黒岩小だより記載の「黒岩探訪」の記事を確認したり、読んだりしたい場合、各記事の頭にある
  シリーズ黒岩探訪〇「〇〇〇〇」→ 「pdfファイル」
 この「pdfファイル」をクリックしてください。

 左のメニューの中、『▶校長室より・黒岩探訪』の下層にある『▶シリーズ黒岩探訪』をクリックしていただき、該当の記事を確認することもできます。
 ご覧の上、よろしければ関心をもてた記事について「ボタン」押してください。

 

NEW シリーズ黒岩探訪47  → 共和公会堂の石造物

シリーズ黒岩探訪47  → 共和公会堂の石造物 47kyouwakoukaidou.pdf

注目は、左の「如意輪観音座像」です。蓮弁に座る姿になっています。

その下の石柱の部分の正面に「廿二夜佛」と彫られています。つまりこれは「二十二夜塔」と言われる石造物です。

江戸時代の天保四年(1833年)に建てられたもので、「願主惣連 下黒岩村 谷津 田中 阪下」とあります。

二十二夜とは月齢を表す呼び方で、月の形でいうと「半月・下弦の月」です。

共和公会堂には、他に次のような石造物があります。

弘法大師座像

名号塔「南無阿弥陀仏」(二つに折れています)

道祖神

庚申塔

シリーズ黒岩探訪46  → 石造物集中地区

シリーズ黒岩探訪46  → 石造物集中地区 46sekizoubutu.pdf

 黒岩地区には、中世の鎌倉時代に制作された「正嘉銘板碑」(黒岩探訪第4号で紹介済)があり、県内でみても古いほうで貴重な文化財になっています。

 その他の石像物は古くても江戸時代以降になります。この時代の代表的な石造物は、「庚申塔」「道祖神」「馬頭観音」です。特に庚申塔は多く合併前の旧富岡市の範囲で980基を数え、石造物全体の30%を占めています。

 正嘉銘板碑の他にすでに紹介した石造物

黒岩探訪14号 機足百庚申

黒岩探訪24号 赤城神社

黒岩探訪27号 大日尊

黒岩探訪30号 衣笠大神(蚕神石造物)

黒岩探訪37号 砂田西墓地

 今号では、石造物が集中している所を紹介します。

向戸公会堂

共和公会堂

田中前墓地

シリーズ黒岩探訪45  → 寒中の候

シリーズ黒岩探訪45  → 寒中の候 45kanntyuunokou.pdf

寒中とは、小寒(寒の入り)から大寒をはさんで立春までの期間です。

1年で最も寒い時期と言われます。また、黒岩探訪21号、22号で述べたように黒岩地区は放射冷却現象が顕著に現れるので、朝方の気温はとても下がります。

さて、昨年と今年では、寒中期間どちらが寒かったでしょうか?

最低気温をまとめてみました。

柱状グラフで表すと

私の感覚では、やはり昨年の方が寒かったと感じます。

共和地区の寒念仏塔(寒行供養塔)がありました。この寒い寒中に修行を積んだ記念に建てたものです。黒岩地区には、他に大日尊や黒岩神社に見られます。

笑う シリーズ黒岩探訪43  → 黒岩小のお宝 黒岩かるた 

シリーズ黒岩探訪43  → 黒岩小のお宝 黒岩かるた → 43kuroiwakaruta.pdf 

黒岩小学校のお宝パート2です。

小学校には黒岩かるたが残っています。このかるたは次のような手順を経てつくられました。

S56年度 かるたの読み札の文を募集

S57年度 かるたの読み札の文を検討

S58年度 かるたの絵を五年生が作成

S59年度 かるたの解説文を作成

平成6年には13枚ほど読み札を改訂したほか、ベニヤ版絵札の制作をしました。

また、平成29年度には6枚の読み札の改訂を行いました。

読み札を挙げてみます。

黒岩かるた 3世代

第1 昭和56~59 絵は昭和58年5年生

第2 平成6年

第3 平成29年 

 

あまちゃで にぎわう 黒岩大日尊

いつまでも 心に残る 黒岩歌舞伎

うすいと 黒岩むすぶ 一丁八丁

えいえんに 郷土を見守る 富岡霊園

H6 笑顔で 元気に 仲良し遊び

おおかみの れいを祭った 新田山神様

かくし谷津から 街を見守る てんぐさま

きょうもまた 無事故を願う 交通指導

くろいわの 歴史を彩る 野口助之丞

けんない めい所めぐりで 持久走 

H6 ゲートボール 交流深める 北グラウンド

 H29 けもの道 つき進んでく 里山コース

こんじょうと 体力をきたえる 少年野球

H6 心を 一つに 大運動会

さわやかに 走って楽しい サイクリングロード

じゅずまわし あくまをはらう 念仏こう

すすめよう 北部開発 夢の都市 

H6 進めよう 北部開発 文化の街

 H29 砂田の郷 石仏石像 並んでる

せかいの幻 おおつのしかの 化石骨

そん民の誇り 北甘楽郡史の 本多亀三

だいにちまつり ハシカまよけの ハリのこぶ

ちから合わせる 黒岩 少女バレー

H6 地域を つなぐ 黒岩公民館

つうがくろ いつもきれいに 交通安全

でんとうを 勝利で守る 上毛かるた

H6 伝統と 暮らしを伝える ミニ農具作り

とおき 古代を想う 古墳群

なかよし清掃 学ぶ協力 働くよろこび 

H6 仲良し清掃 学ぶ協力 働く喜び

 H29 なかよし遊びで きずな深まる

にこにこと 手紙を見ている お年寄り

ぬれた参道 ふんで 大日公園

H6 温もりを みんなで味わう 親子ハイク

ねがいこめ 百庚申の 行者塚

のうぎょうの 守り本尊 赤城神社

はた足の ゆらいをかたる おり姫塚

ひとびとの 病を救う 双体神

ブルーギル プランクトンも 豊富な黒岩つつみ

H6 故郷 きれいに 星川清掃

ベントナイト ろ天掘りの 豊順鉱業 

H6 ベントナイト 露天掘りの 鉱業資源

 H29 ベレー帽 かぶって安全 呼びかける

ほしかわの 流れにそって コスモスの道

まっしろな 南極めざす 本多かん長

みせよう 無事故の誇り 西毛自動車教習所

H6 見せよう 無事故の誇り 交通安全

むかしから 大人と子どもで えんぎの神楽

めに浮かぶ 思い出深い 旧校舎 

H6 目指そう 誇ろう 花づくり

 H29 めずらしい 種類たくさん しゃくやく園

もえ上がる 炎にねがう どんど焼き

やつ谷津の 田畑うるおす 黒岩つつみ

ゆうけいは 富岡一の 十王山

ようさんと 豊作ねがう まゆ玉づくり

らん世を 物がたる 高林城跡

りそうの 街づくり 富久ニュータウン 

H6 理想の 学校づくり 児童会

 H29 利用者の 笑顔あふれる もみじ平

ルールを 守って 集団登下校

れいぎ 正しい 黒岩小学生

ろっかくどう 憲法つくった 聖徳太子

わが里は 九十九谷の 山合いに

 

笑う シリーズ黒岩探訪42  → 黒岩小のお宝 黒岩地区の紙芝居8冊

シリーズ黒岩探訪42  → 黒岩小のお宝 黒岩地区の紙芝居8冊 → 42kamisibaiseisakunenndai.pdf

黒岩小学校に八冊の大型紙芝居が残っています。これは黒岩小学校のお宝で、現在でも、総合的な学習などの地域学習や業前の時間などで活用されています。

これらは、黒岩小学校で地域学習が盛んだった昭和の末期に作成されたものです。下表のとおり、現在42歳~48歳の方々がこの制作に関わっています。

 kamisibaiseisakunenndai.pdf

 

NEW シリーズ黒岩探訪41 黒岩の小字名4 「畑」関係

シリーズ黒岩探訪41  → 黒岩の小字名4 「畑」関係 41koazamei4.pdf

黒岩探訪26号で示したように黒岩には、全部で75の小字名があります。これを次のようにグループ分けしました。「谷津・田」「畑」「山」「川・用水」「坂道」「寺社等」です。

黒岩探訪29号で「谷津」「田」

黒岩探訪38号で「寺社等」に関わる十王山

黒岩探訪39号で「川・用水」を取り上げました。

今回は、「畑」に関すると思われる小字を取り上げています。

かぶら聖苑西側の「原」の畑。

耕作土の下には、1万3千年以上前のローム層が広がっています。

かぶら聖苑東側の畑。小字は「大坂原」あたり。

夜 シリーズ黒岩探訪40 おおかみの霊を祭った新田山神様

シリーズ黒岩探訪40  → おおかみの霊を祭った新田山神様 40sinndennnoyamagamisama.pdf

江戸時代から続く新田の年中行事です。曜日にかかわらず毎年11月11日、12日が祭日となっています。今年も行燈が並び、12日には、山頂の石宮にお赤飯が供えられました。

慶應二年

 

汗・焦る シリーズ黒岩探訪39 黒岩の小字名3 「川・用水」関係

シリーズ黒岩探訪39  → 黒岩の小字名3 「川・用水」関係 39koazamei 3.pdf

黒岩探訪26号で示したように黒岩には、全部で75の小字名があります。これを次のようにグループ分けしました。「谷津・田」「畑」「山」「川・用水」「坂道」「寺社等」です。

黒岩探訪29号で「谷津」「田」

黒岩探訪38号で「寺社等」に関わる十王山を取り上げました。

今回は、「川・用水」に関すると思われる小字の三つを取り上げています。

「関口」「筒中」「落合」です。

PDFファイルをご覧ください。

 

昼 シリーズ黒岩探訪38 黒岩の小字名2 「十王山」と名所「城山」

シリーズ黒岩探訪38  → 黒岩の小字名2 「十王山」と名所「城山」 38juuouyamatojouyama.pdf

1 砂田地区から十王山への登り道

2 上の平坦部にでました

3 2の所から東側に高さ約10mぐらいの小山があります。この地点の標高は220mとちょっと。

4 3の頂部に置かれている石宮には「砂田」と彫られている部分があります

5 2の所から西へ向かうとふれあいの道の看板があります。地点名は「城山」になっています。

6 5の付近から南を望む

7 整備された桜の斜面。春は桜の名所です。

8 眺望台があるようです。頂上の標高は228.6mです。

9 北側を見ると砂田地区の集落が見えます

10 眺望台まで、標高差20数メートルほど登ります

11 展望台から南西を望む。晴天ならば、稲含山がよく見えるはずです。

12 展望台から南を望む

13 富岡地区側への下り道

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(社会、わたしたちの富岡)

 

 

にっこり シリーズ黒岩探訪37 砂田西の石造物群 

シリーズ黒岩探訪37 砂田西の石造物群-奪衣婆(だつえば) 閻魔王(えんまおう) 司命(しみょう) 司録(しろく)- → 37sunadanisisekizoubutugunn.pdf

砂田西の石造物群

奪衣婆(だつえば)像 

司命(しみょう)像 閻魔王(えんまおう)像  司録(しろく)像

 閻魔王(えんまおう)像

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(社会、古くからつたわるもの)

6年(総合的な学習の時間)

NEW シリーズ黒岩探訪36 オオツノシカの化石骨② 附-出土記念碑、鑑定書、出土記録-

シリーズ黒岩探訪36 オオツノシカの化石骨② 附-出土記念碑、鑑定書、出土記録- → 36ootunosikanokasekikotu2.pdf

 夏休み中の職員研修で特別に本物を見させていただきました。これが二万年以上も前に生きていた生物の化石で、発見されてから二百年以上たっているとは思えないくらいとても保存状態のよいものでした。(下の写真は『富岡市の文化財』より)

 オオツノシカの化石骨は、群馬県の指定文化財になっていますが、それにはその出土記念碑、鑑定書及び出土記録が一緒についています。

 このオオツノシカの化石骨そのものについては、すでに黒岩探訪6(昨年6月22日号)で述べています。「オオツノシカの化石骨」→ 6ootunosika.pdf 

今回は、他の3点について記述します。

【オオツノシカ化石骨出土記念碑】

上黒岩打越の発見現場の近くに建てられています。寛政10年(1798)の建立です。側面には寛政9年6月24日に発見されたことが刻まれています。

 上黒岩の打越にあります。案内の看板もあります。

【オオツノシカ化石骨鑑定書】(『富岡市の文化財』より)

幅50㎝、長さ7m以上の巻物になっています。発見から三年後の寛政12年に書かれました。幕府老中松平定信の侍医であった丹波元簡が鑑定にあたり、絵師の谷文晁の実弟の谷元旦が原寸大の写生図を作成しました。(中略)鹿の一種に似ていると指摘しています。

【オオツノシカ化石骨出土記録】(『富岡市の文化財』より)

幅18㎝、長さ2m強の巻物で、七日市藩士大里頼雄の著作を後に本多和太吉が書き写したというもので、原本・写しとも製作年代は分かりません。化石骨は6月24日の土砂崩れで発見され7月17日には藩主の前田利以に献上されたことや、出土地付近は過去にも度々土砂崩れが起きていたことが記されています。この他出土地の絵図、化石骨の略図なども書かれています。

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(社会、古くからつたわるもの)

3年(総合的な学習の時間)

6年(総合的な学習の時間)  

 

 

シリーズ黒岩探訪35 古墳-黒岩地区の古墳と富岡5号古墳出土埴輪

シリーズ黒岩探訪35 古墳-黒岩地区の古墳と富岡5号古墳出土埴輪- →  35kohun.pdf

 平成29年群馬県教育委員会発行『群馬県古墳総覧』によると富岡市には、現存・消滅を合わせて全部で古墳が649基ある(あった)ことが報告されています。(18基の旧北甘楽郡福島町分を含む。)

 黒岩地区分はその内5基だけですので、市内の中では古墳数は少ない地域です。 

 その5基は昭和10年に分布調査し昭和13年にまとめられた『上毛古墳総覧』ですでに報告されています。

 これによると一つ目は機足塚(参照黒岩探訪8)のことです。

二つ目は上黒岩新田にあるとされていますが、現存しているかは不明です。

三つ目は上黒岩にあり、所有が黒岩神社となっています。備考欄に「石棺出デシトイフ」とあります。

四つ目、五つ目は下黒岩にあり、備考欄に書いてあることから「他二同様ノモノ」が4基あったとことがわかります。おそらくその位置は、小字の「田中前」またはこれに接する「谷津」と思われます。学校から見ると南東にあたります。山に向かう所に下の写真のように石室の石材と思われる石が露出している塚があります。形状からほぼ古墳に間違いありません。

 校区ではありませんが富岡五号古墳出土の埴輪を紹介します。

 この古墳は西小学校の校庭拡張整備のため昭和43年に発掘調査された後なくなりました。この古墳は六世紀中頃の直径30mほどの比較的大きな円墳とされています。

 ここから出土した埴輪はとてもすばらしいもので富岡市指定文化財になっています。市立美術館の2階に展示されています。

左から、女子、男子、馬飼〔農夫〕、靭(ゆき)、鞆(とも)、太刀(たち)

【ふるさと学習プログラムとの関連】

6年(社会、日本の歴史)

6年(総合的な学習の時間)  

 

 

シリーズ黒岩探訪34 黒川小塚遺跡-弥生時代のお米- 

シリーズ黒岩探訪34 黒川小塚遺跡-弥生時代のお米- → 34kurokawakodukaiseki.pdf

 黒川小塚遺跡は、国道254バイパスのもみじ平公園入口の信号付近を範囲とする弥生時代中期後半~古墳時代前期の遺跡です。この遺跡は昭和59年のバイパス建設、その後の周辺店舗建設時に発掘調査をされています。

 黒川小塚遺跡は、弥生時代中期後半に防御的な溝を集落の周囲にめぐらせた環濠集落としても知られています。出土土器の様式から弥生時代中期後半とされています。この遺跡から出土した炭化米(稲籾)を科学的に調査したところ、およそ紀元前二世紀と分かりました。

 弥生時代に、富岡市において稲作が行われていたことを示す貴重な遺跡です。

【黒川小塚遺跡弥生時代の環濠集落想像図 富岡市立美術博物館】

【黒川小塚遺跡出土米】

(弘前大学人文学部の鑑定によると紀元前175年±20年と推定される。)

【ふるさと学習プログラムとの関連】

5年(総合的な学習の時間:お米について調べよう)

6年(社会、日本の歴史)  

 

 

シリーズ黒岩探訪33 昭和10年の大水災

シリーズ黒岩探訪33 昭和10年の大水災 → 33syouwa10nenndaisuisai.pdf

 7月初めの西ノ本豪雨災害は、過去の水害に比較して大きなものとなってしまいました。また、今回の台風12号は前例にないコースで日本列島を横断していきました。被災された方々に対して心からお見舞い申し上げます。

 天災は、いつやってくるか分かりません。黒岩地区でも昭和10年9月25日に台風による水害が発生し、下黒岩で6名、上黒岩で2名、合計8名が圧死または溺死した災害があったそうです。この時の富岡市の25日1日の降水量は300ミリ、降り始めからの総降水量は460ミリだったそうです。現在の前橋市の年間降水量1248ミリに比較すると1年間の3分の1にあたります。

 学校に、「下黒岩西区土砂災害緊急避難地図」があります。黒岩小学校を含む範囲の図ですので、過去の災害を知り現在の防災対策に生かすために活用していきたいと思います。

図を拡大する場合 → hinanntizu.jpg 

【ふるさと学習プログラムとの関連】

学校行事(避難訓練) 

 

NEW シリーズ黒岩探訪32 民話・語り部かぶらの里

シリーズ黒岩探訪32 民話・語り部かぶらの里 → 32minwa-kataribe.pdf 

 黒岩小学校では、1年に1度、語り部「かぶらの里」の皆さんに民話を語っていただいています。

 6月20日には、「しょうぶの話」「羊太夫」「かいげんときつね」「大日様ときつね」の4話を語っていただきました。

 民話は 「むかし、むかし」や「むか~ぁし」と語り出し、最後は「~とさ」と結ばれます。 登場人物は、村人、小僧さん、てんぐ、きつね、たぬきなどです。特にきつねが多いような気がします。

 本校には昭和時代の後半に制作された紙芝居が八つ残っていますが、そのうち三つが民話をもとにしています。その三つは次のものです。

【谷をかくした天狗さま」(昭和56年度3年生制作)

【大日様のキツネ」(昭和61年度6年生制作)

【新田の山神様」(昭和62年度6年生制作)

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(総合的な学習の時間)

6年(総合的な学習の時間)  

夜 シリーズ黒岩探訪31 ホタル観賞の夕べ

シリーズ黒岩探訪31 ホタル観賞の夕べ → 31hotarukannsyou.pdf

 黒岩地区地域づくり協議会主催(担当環境美化部)で6月16日に第三回「ホタル観賞の夕べ」が開かれました。 場所は、下黒岩字大平の谷津です。

午後6時半くらいになると薄暗くなってきます。

午後7時を過ぎると暗くなってきます。ホタルが飛び始めるのは午後8時近くになってからでした。

 ここ大平の谷津は、黒岩探訪9黒岩探訪10で谷津を取り上げた時24番を振った堤が奥にあります。この堤の周辺が一番鑑賞に向いている所のようです。

 この堤から下流方向に約五百メートルほど水田が続きます。昨年度各谷津を見て回ったときに現在でも水田の活用率が高い谷津として印象に残った所です。

 用水路が現在でもコンクリート化されていないで自然のままの流れになっています。水田への水口も土管を通すだけのシンプルなもので昔からの方法を受けついでいる様子が分かります。

【ふるさと学習プログラムとの関連】

6年(総合的な学習の時間)

 

 

シリーズ黒岩探訪30 蚕神「絹笠大神」

シリーズ黒岩探訪30 蚕神「絹笠大神」 → 30kinugasaookami.pdf

 今年も県世界遺産課事業の絹文化継承プロジェクトに参加しました。4年生が蚕を六百頭ほど飼い始めました。月末には収繭できる予定です。

 そこで今回は養蚕にちなんで、黒岩に残る蚕神(かいこがみ・さんしん)の石造(像)物「絹笠大神」(きぬがさおおかみ)を紹介します。

  この石造(像)物は、下黒岩の黒澤家にあり屋敷神様と一緒に祀られています。

  石造(像)物「絹笠大神」は、右から2番目。右端は、馬頭観音像。

彫りを強調するため、画像処理しました。

 これも、黒岩地区で養蚕が盛んだったことが分かる貴重な史料と思います。

  関連記事⇒ 黒岩探訪26「さかんだった黒岩村の養蚕業」

 この記事の中に、中央地区の黒澤家がでてきます。関連がうかがわれます。

 【ふるさと学習プログラムとの関連】
4年(総合的な学習の時間)  

 

 

 

 

シリーズ黒岩探訪29 黒岩の「小字」名 1「谷津」「田」

シリーズ黒岩探訪29 黒岩の「小字」名1 →29koazamei1.pdf 

黒岩探訪26号で次の図を示しました。→koazamei.pdf

 黒岩には、全部で75の小字名があります。(現在の黒岩地区は・・・・・・より北側の範囲です。)

 これら75の小字名を「谷津」「田」「畑」「山」「川・用水」「坂道」「寺社等」それぞれに関係するものにグループ分けしました。

 今回の黒岩探訪29号では「谷津」「田」を取り上げます。

 まず「谷津」です。全部で30個あります。

次に「田」に関係するものです。全部で16個あります。

これらの二つを合わせてみます。

 黒岩カルタに「やつ谷津の 田畑うるおす 黒岩つつみ」があります。

 これらの「谷津」関係と「田」関係の二つの合計が46個と全体の約5分の3を占めています。 

 谷津ごとに堤と水田をつくり大事にしてきた先人の努力が地名につながっているように思います。

【ふるさと学習プログラムとの関連】

6年(総合的な学習の時間)

 

 

NEW シリーズ黒岩探訪28 富岡しゃくやく園

シリーズ黒岩探訪28 富岡しゃくやく園 → 28syakuyakuen.pdf 

 昨年度、黒岩に勤めるようになって「しゃくやく畑」があることを知りました。車で通りながらいったい何の畑だろうと思っていたら5月になって花が咲き始めました。これらの畑で栽培されたものは、切り花として出荷されますが、観光用に整えられたところが「富岡しゃくやく園」です。5月中旬が見頃です。

 学校でも昨年度6年生が総合的な学習の時間でお世話になりました。

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(社会、わたしたちのまち)

6年(総合的な学習の時間)

シリーズ黒岩探訪27 黒岩大日尊の石造物

シリーズ黒岩探訪27 黒岩大日尊の石造物 → 27dainitisonsekizoubutu.pdf

 校歌の最初に「みどりに明けて ゆく朝の 大日尊の 杜しずか」と歌われています。今回は、ここの石造物の紹介をします。

説明は、『富岡市の石造物』「平成11年3月」(富岡市教育委員会)からの引用です。

 

【光明真言供養塔】江戸時代 寛政9年(1797年)

中心の梵字は「ア」と読み、大日如来を表します。円の縁取りのように「光明真言」が刻まれています。市内にはここと小野地区の得成寺にあります。

【宝篋印塔】江戸時代 安永7年(1778年)

梵字は「ア」と読み、大日如来を表します。江戸期の宝篋印塔は旧富岡市内に25基あり、その一つです。

【寒念仏塔(阿弥陀如来立像)】江戸時代 寛政6年(1794年)

寒念仏は、古くは寒の入りから明けまでの30日間僧侶が行う厳しい修行です。江戸期になると庶民も加わるようになりました。

【廻国塔】江戸時代 文化11年(1814年)

法華経を日本の66箇所の霊場に納める目的で国々を回ることを廻国といい、そのことを記念して造立した塔を廻国塔といいます。

【ふるさと学習プログラムとの関連】

2年(生活科、まちたんけん)

3年(社会、がっこうのまわり)

3年(社会、ふるくからつたわるもの)

6年(総合的な学習の時間)

 

 

動物 シリーズ黒岩探訪26 黒岩村の(小)字名  

シリーズ黒岩探訪26 黒岩村の(小)字名 ⇒26kuroiwa azamei.pdf 

 三年生が、社会科の学習中に古い地図を見つけてくれました。

 それが、『黒岩村全図』昭和二十五年改訂版です。

 この地図帳の最後のページには、

  昭和二十五年九月十五日印刷発行

  編集者 板倉謙

  印刷所 西毛文化事業部 とあります。

 (小)字名が書かれたページを分かりやすく、ワープロ文字で打ち直してみました。旧黒岩村ですので、黒川地区を含んでいます。字名は、ほとんど今と同じかと思います。

 図中の●は堤(つつみ)を表します。(大きさは原図のとおりではありません。)青い線は、河川を表します。なお、黒岩の堤については、黒岩探訪9号、10号を参照してください。

にっこり シリーズ黒岩探訪25 吾妻の「黒岩姓」

シリーズ黒岩探訪25 吾妻の「黒岩」姓 ⇒ 25agatuma kuroiwasei.pdf

 平昌オリンピックではスケート種目の活躍が目立ちました。だいぶ昔のことになりますが、嬬恋村出身の黒岩姓の選手が大活躍をする時代がありました。その後、嬬恋の黒岩姓は、富岡市の黒岩と関係があると聞くようになりました。ずっと気になっていたことでもあり、今回は二つの書物を引用して、吾妻郡の黒岩姓について述べてみます。

 くわしくはPDFファイルをご覧ください。

にっこり シリーズ黒岩探訪24 赤城神社・黒岩神社

シリーズ黒岩探訪24 赤城神社・黒岩神社 ⇒24kuroiwazinnja.pdf

 今年のお正月、黒岩神社に初詣に行き児童の成長と地域の発展をお願いしてきました。

 所在する番地の字名が「赤城」ですので、もともとあった赤城神社が字名につながっていることが分かります。また、この辺りを「宮本地区」といっているとおり旧黒岩村の「宮」つまり鎮守様であったことも分かります。

 近年、鳥居・石段・拝殿が新しく整備されて新しい神社のように見えますがとても歴史のある神社です。

 

 

東側の石燈籠 享保11年(1726年)

奉寄進石燈籠 壹箇諸願成就之所

享保十一祀丙午五月吉日 當國甘楽郡 施主 下黒岩村中

 西側の石燈籠 享保17年(1732年)

奉寄進石燈籠 

享保十七天壬子十月吉日 西上刕甘楽郡 施主 上黒岩村

 手洗石(ちょうずいし)

明治15年(1882年)右から 漱水  明治十五年 九月念九日

 

 手前(右)が新しくなった拝殿、本殿は奥(左)の覆屋の中にあり大事にされているため見えません。

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(社会、ふるくからつたわるもの)

6年(総合的な学習の時間)

 

お知らせ ふるさと歴史講演会のお知らせ

2月1日号の黒岩公民館だよりでお知らせされたように、下記のとおりふるさと歴史講演会が開催されます。地域の皆様のご期待に添えるような話ができるか分かりませんが、黒岩探訪の内容等も含めて話したいと思います。よろしければご参加ください。

日時 平成30年2月17日(土)

   午前10時30分から1時間程度

場所 黒岩公民館

演題 黒岩地域の歴史について

講師 黒岩小学校 永井 尚寿

* 黒岩地区地域づくり協議会主催です。申込は公民館へお願いします。

にっこり シリーズ黒岩探訪23 もえ上がる 炎にねがう どんど焼き

シリーズ黒岩探訪23 もえ上がる 炎にねがう どんど焼き → 23donndoyaki.pdf  

 平成30年1月13日(土) どんど焼き

 

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(社会、ふるくからつたわるもの)

6年(総合的な学習の時間)

雪 シリーズ黒岩探訪22 黒岩小周辺の気候の特色(冬の気温編2)

シリーズ黒岩探訪22 黒岩小周辺の気候の特色(冬の気温編2) → 22huyunokionnhen2.pdf 

 黒岩小周辺は、風がなくよく晴れた冬の朝、周辺域より気温が下がることが特色です。1月24日現在一番気温が下がったのは1月13日(土)の-8.7℃です。次は1月15日(月)の-8.1℃です。いずれも自記温度計の数値です。記録の精度に疑問があるかもしれませんが15日に-8.1℃を記録した時に棒温度計はー8.7℃、デジタル温度計はー7.9℃の表記を確認していますのでほぼ正確かと思います。

【その後1月25日(木)に更新。ー9.3℃を記録しました。】

 何度か黒岩小周辺の朝の気温を測って次のようなモデル図を作成しました。

気温状況のモデル図(AはBより一度低く、BはCより一度低い)】

 AやBの地域が周辺よりなぜ低気温になるかというと、「放射冷却現象」が顕著に表れるためと考えられます。

 「放射冷却現象」とは地表面の熱が夜間放出され気温が下がることです。これは、どこでも起きていることですが、周辺を丘陵や山に囲まれる盆地形状地のところでは、空気の移動がなく冷気がたまり、「底冷え」することになります。実際には盆地ではありませんが、図中の・・・・線の二箇所は丘陵地が狭まっているため、その上流側に冷気がたまりやすくなっていると思われます。盆地形状の所では、冷気がたまる下層ほど低温になります。これを模式的に示すと図のようになります。

  また、放出された熱がやや上空で周辺より温度の高い層(逆転層)を形成するため、立ち昇った煙がそれ以上上昇できず、風もないのに横にたなびく現象が見られます。これは8時前後に解消されるとともに日中の気温差はなくなります。

  今冬は久しぶりに寒気が強い冬になっているようです。小学校で記録している記録から気温図を作成しました。

拡大するには右のファイルをクリック → kionngurahu1gatu18~31.pdf

 

たなびく煙(1月15日)

学校裏の星川(1月15日)

凍った学校のひょうたん池(1月15日)

【ふるさと学習プログラムとの関連】

5年(理科、天気と情報)

1年(生活科、ふゆをたのしもう)

 

ひらめき シリーズ黒岩探訪 番外編『高林城で確認した遺物「かわらけ」について』

 「かわらけ」とは聞き慣れない言葉と思います。現代でもまれに使われていることもあるかもしれませんが、ここでは主に中世に使用された素焼きの土器皿の意味で使用します。

 さて、黒岩探訪第2号「黒岩小だより平成29年4月25日号」で紹介した遺物のかわらけを実測し、観察表を作成しました。考古学分野の内容になっています。興味をもてましたらご覧ください。

実測図(図のみ)

実測図(写真つき)

 

観察表等の記録 → kawarake.docx

 総合的に判断して、このかわらけは16世紀のものと考えられます。発掘調査に基づく遺物ではないため、直接高林城との関連を説明できる遺物ではありませんが、高林城の時代を考える時重要な遺物といえます。

晴れのち曇り シリーズ黒岩探訪21 黒岩小周辺の気候の特色(冬の気温編1)

シリーズ黒岩探訪21 黒岩小周辺の気候の特色(冬の気温編1) → 21huyunokionnhen1.pdf

 黒岩小学校周辺は、朝の気温が一ノ宮バイパス付近と比較して3~4度くらい、富岡地区と比較して2度くらい下がることがあります。

 ー5℃より低くなると学校裏の星川の表面が全面的に凍ります。写真は12月18日の朝です。この朝は学校の百葉箱の自記温度計の記録では、ー7℃まで下がりました。

 次の写真は12月14日の朝のものです。学校の南側土手の湧水地で流れ出た水が凍った様子です。この日はー5℃近くまで下がりました。

 黒岩小周辺の気温の特徴についてまとめてみました。詳しくは上のPDFファイルをご覧ください。

一 朝の気温がとても低い。

二 昼の気温が高い。

三 一日の気温較差がとても大きい。

四 15~19時にかけて一気に気温が下がる。

五 21時から夜明けにかけて継続的に下がる。

 「五」は放射冷却現象によるものですが、黒岩小周辺はこの現象が顕著に現れるようです。一般にこの現象は次のような時に、より強く現れます。

①よく晴れた夜(星空ということ)

②風がない夜

③山地よりも低地の平野部

④盆地状の地域

 黒岩小周辺はこの④の地形の影響が大きく関係していると思われます。

 また、この現象が現れた朝「煙がたなびいている様子」(写真)を観察することができます。

 

 次のグラフは小学校で初氷を観察した11月20日から1週間の気温グラフです。青の太線が小学校の気温記録、緑線が下仁田町西野牧のアメダスの気温記録、点付きの黒細線が前橋のアメダスの気温記録です。

 前橋が氷点下を記録するかなり前から学校では氷点下の朝を迎えていることがわかります。

 また、県央部の前橋市や山間地の下仁田西野牧に比較して1日の中での気温較差が大きいことが特徴といえます。

 この図を拡大するには次のPDFファイルをクリックしてください。

 → kionngurahu.pdf

【ふるさと学習プログラムとの関連】

5年(理科、天気と情報)

鉛筆 シリーズ黒岩探訪20 黒岩小学校の歴史

シリーズ黒岩探訪20 黒岩小学校の歴史 → 20kuroiwasyounoreksi.pdf 

出典:国土地理院ウェブサイト(http://maps.gsi.go.jp/)の空中写真データ(1974~1978)

昭和50年前後の写真です。

昭和9年10月15日落成式~昭和55年度(昭和56年3月)まで使用された旧校舎が写っています。

現在の校舎位置は、第2グランドになっています。

旧校舎落成式(昭和9年10月15日)

左は、加藤黒岩村長。右は、畑 校長。

現在の校舎

右 シリーズ黒岩探訪19 辻の道標(道しるべ)

シリーズ黒岩探訪19 辻の道標 → 19tuzinomitisirube.pdf

 下黒岩の三叉路の信号脇に道標があります。道路の拡張工事の際移動されて、向きは合っていませんが、四角柱の4面中3面に地名、1面に建立年月と建立者名が記されて(彫られて)います。

 

 

 

道路に面した側に次の字が書かれています。

変体仮名ですので読みづらいでしょうが、書いてある字は「とみおか」です。漢字を当てると「登美遠可」です。さらに一文字この下に続くようですが判別できません。

この面の左側には次の字が書かれています。

これは「あんなか」です。漢字では「安无奈加」です。さらにこの下に「道」がありそうですので、「あんなか道」となりそうです。

この面の反対側には次の字が書かれています。

これは「いたはな」です。漢字では「以多者奈」です。その下に「道」がありそうですの、「いたはな道」になりそうです。

残る1面です。

「明治29年10月建 藤岡町・富?町 藤三堂 栗原 同 金」まで読めます。下は埋まっていますが、建立者は藤岡町と富岡町?に縁のある「藤三堂」という屋号らしきものをもつ「栗原○○」という方と同じく「栗原金○○」という名前の二人と想像できます。

 道しるべが建つということは、交通の要衝であるという印です。この道しるべは明治時代ですが、それ以前にもあったかもしれません。江戸時代から、富岡より北方向の中仙道に抜ける場合、宿場町の板鼻か安中を目指すことになります。下黒岩で方向を間違わないためにここに道しるべがあることは重要だったと思われます。

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(社会、学校のまわり)

 6年(国語、日本で使う文字)

笑う シリーズ黒岩探訪18 佐藤茂助翁と二宮金次郎像

シリーズ黒岩探訪18 佐藤茂助翁と二宮金次郎像 → 18mosukeoutokinnzirouzou.pdf 

 校庭に建つ二宮金次郎像のことが少しわかりました。

4月9日 シダレザクラの下の二宮金次郎像

 

 

 

台座の裏に下の写真のように刻まれています。

 分かりづらいですが、「皇紀二千六百年記念 寄贈 佐藤茂助」と書かれています。年は西暦に直すと1940年、昭和15年です。

 黒岩小学校が今の公民館とそのグランドにあった時に、佐藤茂助様という方が寄贈してくれたことが分かります。

 では、その方はどんな方だったのでしょうか?この像の由来と佐藤茂助氏について上黒岩出身の方が調査に訪れた時、一緒に調べてみました。

 黒岩小学校の西隣の遍照寺墓地内に、佐藤氏の胸像が建っていました。

 台座には次の碑文が刻まれています。

佐藤茂助翁碑文.pdf

佐藤茂助翁は、明治11年4月群馬県北甘楽郡黒岩村に生まれ、同32年志を立て石材工業界に入りその業の指導開発に一身をささげ、あるいは機械的操作の工夫にあるいは優良職工の養成に翁独特の創造力と義侠心とを発揮せるのみならず、更に建築用材をして現今帝都に重きをなせるものにして翁の山谷を跋渉(ばっしょう)して苦心踏査の結果発見せられたるもの枚挙にいとまからず。東宮御所、横浜税関、帝室博物館、大蔵省新庁舎等多数の模範的石造建築物にして翁の関係して心血を注げるもの少なからず。ここに翁の還暦を迎ふるにあたり親友知己並びにその薫陶を受けたる者、相図りて寿像を建設してもって謝恩の意を表するものなり。

 昭和13年4月建之 県会議員 田村靜明 書之

 

 佐藤氏は、この文から、都内の大きな建造物にも関わるほど石材業で活躍された方ということがわかります。学校に来訪された方によると、佐藤氏は南牧村の石材産地である南牧村磐戸の椚地区の椚石に関わっていた方ということです。

 また、大日公園入口には次の門柱が建っています。

写真左の「大日公園」の裏には、「佐藤茂助翁壽像建設紀念」(紀は糸へん)

写真右の「黒岩山」の裏には、「昭和十三年四月吉日」と記されています。

 この門柱も階段の石も、二宮金次郎像及び台座の石もみな椚石です。

 明治時代に建てられた建造物の中には、この椚石を使用している建物があります。どのくらい佐藤茂助氏が関わっていたかは不明です。

 学校では、学校の二宮金次郎像は佐藤茂助氏が昭和15年に寄贈してくれたものであり、その方の像が学校横に建っていることを伝えていきたいと思います。

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(社会、学校のまわり)

1年(生活科、がっこうたんけん)

電車 シリーズ黒岩探訪17 デキ型電気機関車2号機

シリーズ黒岩探訪17 デキ型電気機関車2号機 → 17dekigatadennkikikannsya.pdf

 黒岩地区には鉄道が通っていません。先日の6年生の修学旅行では、安中駅を乗降駅として利用しました。したがって、黒岩地区は鉄道に縁が無いと思いがちですが、一つだけ鉄道関連のものがあります。

 それが、デキ型電気機関車2号機です。

 市立美術館の屋外展示スペースに保存設置されています。美術館の住所は黒川地区ですが、設置されている番地は上黒岩です。

 富岡市指定重要文化財になっています。黒岩地区のこの他の指定重要文化財は県指定のオオツノシカ関連のもの(黒岩探訪6)と、市指定の正嘉銘板碑(黒岩探訪4)と本件の合計三件です。

【ふるさと学習プログラムとの関連】
3年(社会、学校のまわり)

美術・図工 シリーズ黒岩探訪16 遍照寺・大日尊

シリーズ黒岩探訪16 遍照寺・大日尊 → 16dainitison.pdf

 黒岩地区、黒岩小学校にとってとても関連深い遍照寺とその大日堂。

 校内絵画展の取組で五年生が大日堂と仁王門をテーマに絵を描いています。

黒岩かるたでは「あまちゃでにぎわう黒岩大日尊」

校歌一番で「みどりに明けて ゆく朝の 大日尊の 杜しずか」

 と歌われています。

黒岩探訪11で取り上げたように黒岩小学校は明治七年遍照寺に設立されたのが始まりです。

 

大日堂

大日堂の縁の下をくぐるとハシカが軽くすむといわれています。

真下の根太(ねだ)には大きなこぶがあり磨かれて光っています。

仁王門

  開口の阿形(あぎょう)像

  口を結んだ吽形(うんぎょう)像

大日如来像

大日如来を表す梵字の石造物 (梵字は「अ 」読み方は「ア」)

 

 

星 シリーズ黒岩探訪15 盛んだった黒岩村の養蚕業

シリーズ黒岩探訪15 盛んだった黒岩村の養蚕業 → 15kuroiwanoyousanngyou.pdf

 4年生が総合的な学習の時間で養蚕体験に取り組み、先日約300個の繭を出荷しました。今回4年生は、半分ほど家に持ち帰って飼育し、まぶしも手作りしました。

【盛んだった黒岩村の養蚕業】 

この資料の説明

  著書名:大日本蚕業家名鑑

  著者:齋藤兵次郎

  刊行:大正2年12月

  発行所:扶桑社

 この著書の中に、収繭量三石以上の養蚕家が掲載されているページがあります。その中の旧黒岩村にあたるところを掲載しました。数字は収繭石数を示しています。 この場合の一石は十貫目=37.5kg、十石で375kgということです。

 黒岩地区で養蚕が盛んだったことが分かる貴重な資料と思い、ここに掲載させていただきます。

 明治期の製糸業のもとを支えてきた方々です。ご近所やご先祖でご存じの方がいらっしゃるでしょうか?

【ふるさと学習プログラムとの関連】
4年(総合的な学習の時間)  

 

お知らせ シリーズ黒岩探訪14 機足百庚申

シリーズ黒岩探訪14 機足百庚申 → 14hyakkousin.pdf 

今年の運動会での一コマ

 これは高学年の組み体操の中の一場面です。今年度、黒岩カルタの題材から八つの札を取り上げ表現しました。

 この札は「ねがいこめ百庚申の行者塚」の百庚申を表しています。

 「庚申」「庚申塔」「百庚申」等の説明は、上のPDFファイルをご覧ください。

機足百庚申(写真は富岡市文化財保護課提供)

 富岡霊園に続く上(南)の小高いところにあります。現在は草に覆われていて確認できません。

 一箇所に百基前後の庚申塔が集まる所を「百庚申」といい、富岡市には、中高瀬や田篠にも見られます。黒岩の機足百庚申は、二番目に数が多く109基の庚申塔が建てられています。

 次の2枚の写真は、平成22年11月23日の「文化財ウォーク」の場面です。(富岡市文化財保護課提供)

 

 建立年が分かっているものに、享保4年(1719)、寛政6年(1794)、寛政9年(1797)、寛政12年(1800)、文政7年(1824)、天保7年(1836)があります。また、記名されたなかに勅使河原姓や野口姓があり、この地区のご先祖がしのばれます。

 地区の中に表現できるものがあり、また、それを表現できる機会があることの素晴らしさを感じた運動会でした。

 なお、読み札にある「行者塚」について、学校にある昭和60年作成の札の説明には、「”えんの行者"を祭った塚とも言われ、この塚にも、行者「了園」の祈願した供養塔もある。とありますが、今のところ確認できていません。この言い伝えや文献についてご存じの方がいましたらお知らせください。

 

【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(総合的な学習の時間:黒岩カルタ)

3年(社会:学校のまわり)

学校 シリーズ黒岩探訪13 ユリノキ

シリーズ黒岩探訪13 ユリノキ → 13yurinoki.pdf

黒岩小学校のユリノキ

 校庭西側のサッカーゴール裏に2本、校庭南側に2本、合計4本あります。4階音楽室から見るとほぼ同じ高さのものとそれ以上のものがあります。樹高は10数メートル~20メートルと推定されます。

 

花は5月下旬に咲きます。

 

 

 

 花が似ていることから、チューリップ・ツリーともよばれるそうです。また、葉が半纏(はんてん)に似ていることからハンテンボクとも呼ばれるそうです。

 北アメリカ原産の樹木で、日本では明治時代になってから公園等に植樹されるようになったそうです。

 本校に植えられることになった経緯等ご存じの方がいましたらお知らせください。

 

【ふるさと学習プログラムとの関連】

3年(総合的な学習の時間:里山図鑑をつくろう)

1年(生活科:あきとともだち)

シリーズ黒岩探訪12「真っ白な南極めざす本多艦長」

シリーズ黒岩探訪12「真っ白な南極めざす本多艦長」→ 12honndakantyou.pdf

校長室に「『ふじ』南極航海記」という本があります。

発行:昭和41年9月30日

発行所:朝日新聞社

著者:本多敏治

 本多氏は、黒岩カルタに標題のようにうたわれている、黒岩地区の偉人です。昭和60年度には当時の6年生が11枚からなる紙芝居にまとめています。

 略歴

 大正5(1916)年、上黒岩生まれ

 旧制富岡中学校(今の富岡高校)卒業

 昭和40(1965)年、第7次南極観測船艦長(初代「ふじ」艦長)

 昭和42(1967)年、第9次南極観測船艦長

 その後、海上幕僚監部南極観測支援室長

著作「『ふじ』南極航海記」より

 蜜氷群を進む「ふじ」

定着氷に接岸した「ふじ」の荷下ろしを見学するペンギン 

 

南極(オングル島)に立つ著者

南極の昭和基地

同行した特派員が著者の人生観を感じた講義の言葉

 「決して急いではならない」

 「自然に逆らうな」

 「自然を尊敬せよ」

 「ただし自然を恐れてはならない」

同特派員が感銘する著者の力

 「勝負所の蜜氷群突破の際、二晩一睡もせず頑張り通した芯の強さ」

 「東西冷戦下、ソ連の基地訪問をさらりとこなす実行力」

 

続きは校長室に伝わる本多氏の寄贈品についてです。

  

続き

 本多敏治氏からの寄贈品

第7次隊の後、寄贈された南極の石と写真 

 

 箱書きには「南極の不二石 含石榴石変成岩」と書かれています。

 これについて、国立極地研究所 南極・北極科学館(東京都立川市)に問い合わせてみたところ次のような説明を受けました。

 南極の昭和基地周辺から持ち帰った石は、だいたい片麻(へんま)岩である。白い所は、石英・長石・雲母で、中に透き通った赤紫色の結晶があるとそれを石榴(ざくろ)石が入った片麻岩と言っている。磁石がつくのは黒い岩片に鉄分が含まれれているためである。

 肉眼では、石榴石は確認できませんが、30倍のルーペ式顕微鏡で覗くといくつかそれらしきものが確認できました。

 (表)

 第9次隊の後、寄贈プレート(裏)

 

 石は、校長室に展示してあります。ご覧になりたい方は来校した折、校長室にお寄りください。

 

【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(総合的な学習の時間:黒岩カルタ)

6年(理科:土地のつくり)

3年(総合的な学習:黒岩はかせになろう)

 

シリーズ黒岩探訪11「黒岩小学校の沿革」

シリーズ黒岩探訪11「黒岩小学校の沿革」 →  11gakkouennkakusi.pdf
 本校の沿革を調べる機会がありました。
 次の表に年表形式でまとめてみましたので、興味のある方はご覧ください。
黒岩小学校の沿革 → 
gakkouennkakusi.pdf

 途中、明治時代の黒川尋常小学校から昭和時代前半の黒川分校の流れが同一かどうか不明です。同じ場所に継続してあったかどうか、分かる方がいらっしゃいましたら教えていただけると幸いです。(黒川地区のことですが・・。)

 昭和9年10月に落成式を行った当時の旧黒岩小学校の写真(現在の市民運動場)
kyuukuroiwasyougakkou.pdf

左:加藤 一作 黒岩村長   右:畑 茂十郎 校長


 黒岩カルタでは、「めに浮かぶ思い出深い旧校舎」
とありますが、現在の児童は「目に浮かぶ」ことができない世代になっています。

【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(総合的な学習の時間 黒岩カルタ)
3年(社会、学校のまわり)

シリーズ黒岩探訪10「黒岩つつみ 及び 谷津 2」

シリーズ黒岩探訪10「黒岩つつみ 及び 谷津 2」 → 10kuroiwatutumi yatu 2.pdf 
この記事は「黒岩探訪9」の続きです。
下の地図を縮小前のサイズで見る場合には次をクリックしてください。→kuroiwanotikei tutumi yatu.jpg
堤とそれを水源とした水田の風景は、日本的な風景と感じます。しかし、堤や水田の維持・管理ができなくなってきて全国的に減少の傾向にあります。このページでは平成29年度の記録として黒岩地区の谷津谷津の紹介をします。堤の番号は地図で確認してください。

【1】 機足地区(西)6月24日撮影 堤の番号5



【2】 機足地区(西)7月18日撮影 堤の番号1



【3】 新田地区 6月24日撮影 堤の番号6
【4】 深町地区 7月7日撮影 堤の番号12


堤12と11の間
【4】 深町地区 7月7日撮影 堤の番号14
【5】 宮本地区 7月7日撮影 堤の番号15








【6】 大日地区 7月7日撮影 堤の番号17
【7】 大日地区 7月7日撮影 堤の番号18
【8】 一丁八丁坂 7月6日撮影 堤の番号23
【9】 山際地区 7月6日撮影 堤の番号24
ここの水路は、コンクリート製ではありません。自然に優しいつくりになっています。毎年、ホタル祭りも開かれています。きっとカワニナも生息していることでしょう。



【10】 砂田地区 7月6日撮影 堤の番号33
【11】 芹田地区 7月6日撮影 堤の番号30




【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(総合的な学習の時間 黒岩カルタ)
5年(総合的な学習の時間 米づくり)
4年(社会、くらしと水)
3年(社会、学校のまわり 地形のようす 農業)
3年(総合的な学習の時間 里山をしらべよう)

シリーズ黒岩探訪9「黒岩つつみ 及び 谷津」

シリーズ黒岩探訪9「黒岩つつみ 及び 谷津 1」 → 9kuroiwatutumi yatu 1.pdf
 黒岩カルタには、堤または谷津に関わるものが四つあります。次のものです。

「かくし谷津から街を見守る天狗様」

ブルーギル、プランクトンも豊富な黒岩つつみ」

「やつ谷津の田畑うるおす黒岩つつみ」

「わが里は九十九谷の山合いに」

 黒岩地区の地形上の特徴は、丘陵地帯と中央に流れる星川です。この星川に流れ出る多くの支流沿いに、谷津ごとに細長い水田域を形成しています。この谷津の最上流部に堤を造り農業用水と利用していることが大きな特徴です。
 黒岩地区には、とてもたくさんの谷津と堤があります。次に谷津を利用した水田と堤を示した地図を載せます。(データが少し古く現在では水田ではないところもあり、またすでに堤として利用していないものもあります。)

この地図を縮小前のサイズで見る場合には次をクリックしてください。→kuroiwanotikei tutumi yatu.jpg

 かくし谷津の伝説では、天狗が谷津を一つ隠して九十九谷になったというくだりがでてきます。
 また、わが里は九十九谷とありますが、この場合は数が多いことを九十九と表しているものと考えられます。実際地図で細かい谷筋まで数えても実際は50くらいです。
 黒岩カルタの解説版では、ため池(堤)は34と記述されていました。地図中で確認できた34個について赤い〇を付けてありますが、すべてを確認したわけではありませんので、不正確な部分もあると思います。ご了承ください。
 後のシリーズで、今現在の堤や水田の様子を掲載する予定です。

【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(総合的な学習の時間 黒岩カルタ)
5年(総合的な学習の時間 米づくり)
4年(社会、くらしと水)
3年(社会、学校のまわり 地形のようす 農業)
3年(総合的な学習の時間 里山をしらべよう)
 

シリーズ黒岩探訪8「機足の由来を語る織姫塚」

シリーズ黒岩探訪8「機足の由来を語る織姫塚」 → 8hataasituka.pdf

黒岩カルタ「は」の原画


現在の機足坂(北から撮影)。このあたりの東側(左側)に機足塚はあります。


機足坂頂上にある、藤塚稲荷神社。(東から撮影)

 


藤塚稲荷神社が建つ藤塚。

 


機足坂頂上からの景色。(北から南方を望む。)



【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(総合的な学習の時間)
全校(七夕集会)

黒岩探訪閲覧の方へお願い

 黒岩小だより、平成29年6月22日発行第7号 【地域への[回覧]開始は、7月1日~】 において、『シリーズ黒岩探訪WEB版』の紹介記事を載せました。
 つきましては、その記事を既読後、このページを訪れていただいた方にお願いです。
 記事が伝わったことの確認のため、よろしければこの記事の最後にある[投票する]のボタンを押していただけるとありがたいと存じます。よろしくお願いいたします。

シリーズ黒岩探訪7「養蚕の面影残す北村家」」

シリーズ黒岩探訪7「養蚕の面影残す北村家」 → 7yousannnoukakitamurake.pdf

切妻造三階建て養蚕農家の北村家 昭和6年建築
3階の様子と梁の小屋組



屋根裏棟木直下の神棚


【ふるさと学習プログラムとの関連】
4年(総合的な学習の時間)
3年(社会、学校のまわり)

シリーズ黒岩探訪6「オオツノシカの化石骨」

  シリーズ黒岩探訪 6「オオツノシカの化石骨」→  6ootunosika.pdf

 

 昭和57年度制作 版画26枚組の紙芝居の1枚目
 次のような説明がついています。大作です。
 「この作品は、ぼくたち6年生26人が約4か月かけての作品です。黒岩に出たオオツノシカを物語にしたものです。それぞれが分担しいろいろな場面を彫りました。いっしょうけんめい彫りました。読んでください。」


昭和57年度制作 版画26枚組の紙芝居

 

昭和58年度制作 黒岩かるたの札「せ」の原画
昭和59年度制作 子供みこし用模型
当時の育成会役員制作とPTA役員制作協力とあります
オオツノシカの化石骨の写真


【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(総合的な学習の時間)
3年(社会、学校のまわり)

シリーズ黒岩探訪2「高林城」追加記事

シリーズ黒岩探訪2「高林城」追加記事
「3年生 城の造りを体験する」の巻

 6月16日、3年生の里山探検で高林城に行ってきました。
 前回1度行った後、城に興味を持った児童がいるとのことで、城の造りを体感できるようにコースを設定しました。

目指すはここの頂上の本曲輪

ここにたどり着く前には、堀切があります

堀切のVの字形が分かるように並んでもらいました
堀切を横断するのは大変です

ここを乗り越えると平らな腰曲輪です

さらにここから本曲輪を目指し崖を登ります

結構、急なので大変です

本曲輪に到着し、崖を登る大変さを実感しました。
本曲輪の周囲360度すべてが崖だと大変なので、普通「虎口」と言われる登り口があることも伝えました。
3年生には難しい話ですが実感した後だけに、興味をもってもらったようでした。
中世の山城を校庭を出発して20分で体験できる学校はあまりないと思います。
また、高林城は地域の方が、整備してくれているので児童でも安全に行ってこられます。
整備途中とのことですが、見晴らしがよい環境にしていただいています。ありがとうございます。

ノート・レポート シリーズ黒岩探訪5「西毛自動車教習所」

シリーズ黒岩探訪 5「西毛自動車教習所」 → 5seimouzidousyakyousyuujo.pdf 

地域の交通安全に貢献されている校区内に所在する自動車教習所です。本校の交通安全教室は、ここで行われます。とてもたくさんの方々に協力していただいています。

西毛自動車教習所交通安全教室

交通少年団認証式

自転車事故再現(1)

自転車事故再現(2)

低学年横断歩道の渡り方

自転車の正しい乗り方

交差点を使った横断(歩行・自転車)

お世話になった交通安全協会・交通指導員の皆様

お世話になった西毛自動車教習所の所員の皆様

【ふるさと学習プログラムとの関連】
全学年(学校行事)
3年(社会、学校のまわり)

ノート・レポート シリーズ黒岩探訪4「正嘉銘板碑」

シリーズ黒岩探訪 4「正嘉銘板碑」 → 4syoukameiitabi.pdf


1258年建立、群馬県で8番目に古い板碑です。
6年生の現地学習に同行して説明しました。

表側(南向き)
裏側

【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(総合的な学習の時間)
6年(社会、歴史)

ノート・レポート シリーズ黒岩探訪3「あまだれ石 火山豆石」

シリーズ黒岩探訪 3「あまだれ石 火山豆石」 → 
3kazannmameisi.pdf

6月5日(月)、職員の現地研修を行いました。

火山豆石(上側の地層にあたる部分を下から撮影)

火山豆石(地層下側を上から撮影)

歩道橋下の地層をきれいにしました。サイクリングロードの橋から下を見ると火山豆石の地層を確かめられます。昼間黒岩公民館にお寄りの折等ご覧ください。

地層観察(1)

地層観察(2)

観察地点(1)歩道橋下(2)サイクリングロード脇

【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(理科、地層)
6年(総合的な学習の時間)
3年(社会、学校のまわり)

ノート・レポート シリーズ黒岩探訪2「高林城」

シリーズ黒岩探訪 2「高林城」 → 2kourinnjou.pdf

 西毛地域にはたくさんの中世の山城がありますが、おそらく、現存する中では学校から一番近くにある山城と思われます。
 今年度、4月に職員研修、3年生の社会科たんけん、5月に6年生の総合的な学習の時間などで訪れています。
 

 
頂上が本曲輪、手前は腰曲輪(北北東から撮影)

本曲輪東側の腰曲輪(北から撮影)

本曲輪南側の腰曲輪の南にある堀切(東から撮影)
きれいな逆台形の形が残っています。

本曲輪北側の腰曲輪の北にある堀切(西から撮影)
きれいな逆台形の形が残っていますが写真では分かりづらくなっています。

本曲輪から妙義山を望む(東から撮影)
手前は宝暦13年(1763)記銘の石祠
江戸時代のものなので、築城とは無関係

本曲輪上で確認した「かわらけ」
直径8.9cm 器高1.9cm
ロクロ成形 底部左回転糸切り
口縁部約半周にタール状の黒色物付着→灯明皿として使用した特徴を残す。
総合的判断から16世紀の遺物と思われます。

【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(社会、歴史)
6年(総合的な学習の時間)
3年(社会、学校のまわり)

ノート・レポート シリーズ黒岩探訪1「北甘楽郡史 本多亀三」

シリーズ黒岩探訪 1「北甘楽郡史 本多亀三」 → 
1kitakannragunnsi.pdf

この本は、甘楽富岡地域にとって貴重な書物です。
著者は黒岩出身の、本多亀三氏です。
 
校長室に残る『群馬県北甘楽郡史』昭和3年11月1日発行初版本



黒岩村の記述ページ

著者 本多 亀三 氏(亀は旧字体)

【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(総合的な学習の時間)
4年(社会、地域の発展につくした人々)

鉛筆 黒岩探訪web版掲載開始にあたって

 学校教育に関わる地域の自然や歴史的事象に関して、保護者や地域の方々が黒岩地区のよさを再確認していただける記事を提供したいと考え「黒岩小だより」に「黒岩探訪」のコーナーを設けました。
 このウェブページ版は、それに関係する写真等を載せています。黒岩小だより記載の「黒岩探訪」の記事を確認したり、読んだりしたい場合 → の先の「pdfファイル」をクリックしてください。
 ウェブページ版掲載前の5月末日現在、数名の方からご感想を寄せていただきました。ありがとうございました。
 「黒岩探訪」の文責は永井にあります。事実正誤のご指摘等を含めご感想等お寄せいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。