黒岩探訪web版
シリーズ黒岩探訪16 遍照寺・大日尊
シリーズ黒岩探訪16 遍照寺・大日尊 → 16dainitison.pdf
黒岩地区、黒岩小学校にとってとても関連深い遍照寺とその大日堂。
校内絵画展の取組で五年生が大日堂と仁王門をテーマに絵を描いています。
黒岩かるたでは「あまちゃでにぎわう黒岩大日尊」
校歌一番で「みどりに明けて ゆく朝の 大日尊の 杜しずか」
と歌われています。
黒岩探訪11で取り上げたように黒岩小学校は明治七年遍照寺に設立されたのが始まりです。
大日堂
大日堂の縁の下をくぐるとハシカが軽くすむといわれています。
真下の根太(ねだ)には大きなこぶがあり磨かれて光っています。
仁王門
開口の阿形(あぎょう)像
口を結んだ吽形(うんぎょう)像
大日如来像
大日如来を表す梵字の石造物 (梵字は「अ 」読み方は「ア」)
シリーズ黒岩探訪15 盛んだった黒岩村の養蚕業
シリーズ黒岩探訪15 盛んだった黒岩村の養蚕業 → 15kuroiwanoyousanngyou.pdf
4年生が総合的な学習の時間で養蚕体験に取り組み、先日約300個の繭を出荷しました。今回4年生は、半分ほど家に持ち帰って飼育し、まぶしも手作りしました。
【盛んだった黒岩村の養蚕業】
この資料の説明
著書名:大日本蚕業家名鑑
著者:齋藤兵次郎
刊行:大正2年12月
発行所:扶桑社
この著書の中に、収繭量三石以上の養蚕家が掲載されているページがあります。その中の旧黒岩村にあたるところを掲載しました。数字は収繭石数を示しています。 この場合の一石は十貫目=37.5kg、十石で375kgということです。
黒岩地区で養蚕が盛んだったことが分かる貴重な資料と思い、ここに掲載させていただきます。
明治期の製糸業のもとを支えてきた方々です。ご近所やご先祖でご存じの方がいらっしゃるでしょうか?
【ふるさと学習プログラムとの関連】
4年(総合的な学習の時間)
シリーズ黒岩探訪14 機足百庚申
シリーズ黒岩探訪14 機足百庚申 → 14hyakkousin.pdf
今年の運動会での一コマ
これは高学年の組み体操の中の一場面です。今年度、黒岩カルタの題材から八つの札を取り上げ表現しました。
この札は「ねがいこめ百庚申の行者塚」の百庚申を表しています。
「庚申」「庚申塔」「百庚申」等の説明は、上のPDFファイルをご覧ください。
機足百庚申(写真は富岡市文化財保護課提供)
富岡霊園に続く上(南)の小高いところにあります。現在は草に覆われていて確認できません。
一箇所に百基前後の庚申塔が集まる所を「百庚申」といい、富岡市には、中高瀬や田篠にも見られます。黒岩の機足百庚申は、二番目に数が多く109基の庚申塔が建てられています。
次の2枚の写真は、平成22年11月23日の「文化財ウォーク」の場面です。(富岡市文化財保護課提供)
建立年が分かっているものに、享保4年(1719)、寛政6年(1794)、寛政9年(1797)、寛政12年(1800)、文政7年(1824)、天保7年(1836)があります。また、記名されたなかに勅使河原姓や野口姓があり、この地区のご先祖がしのばれます。
地区の中に表現できるものがあり、また、それを表現できる機会があることの素晴らしさを感じた運動会でした。
なお、読み札にある「行者塚」について、学校にある昭和60年作成の札の説明には、「”えんの行者"を祭った塚とも言われ、この塚にも、行者「了園」の祈願した供養塔もある。とありますが、今のところ確認できていません。この言い伝えや文献についてご存じの方がいましたらお知らせください。
【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(総合的な学習の時間:黒岩カルタ)
3年(社会:学校のまわり)
シリーズ黒岩探訪13 ユリノキ
シリーズ黒岩探訪13 ユリノキ → 13yurinoki.pdf
黒岩小学校のユリノキ
校庭西側のサッカーゴール裏に2本、校庭南側に2本、合計4本あります。4階音楽室から見るとほぼ同じ高さのものとそれ以上のものがあります。樹高は10数メートル~20メートルと推定されます。
花は5月下旬に咲きます。
花が似ていることから、チューリップ・ツリーともよばれるそうです。また、葉が半纏(はんてん)に似ていることからハンテンボクとも呼ばれるそうです。
北アメリカ原産の樹木で、日本では明治時代になってから公園等に植樹されるようになったそうです。
本校に植えられることになった経緯等ご存じの方がいましたらお知らせください。
【ふるさと学習プログラムとの関連】
3年(総合的な学習の時間:里山図鑑をつくろう)
1年(生活科:あきとともだち)
シリーズ黒岩探訪12「真っ白な南極めざす本多艦長」
シリーズ黒岩探訪12「真っ白な南極めざす本多艦長」→ 12honndakantyou.pdf
校長室に「『ふじ』南極航海記」という本があります。
発行:昭和41年9月30日
発行所:朝日新聞社
著者:本多敏治
本多氏は、黒岩カルタに標題のようにうたわれている、黒岩地区の偉人です。昭和60年度には当時の6年生が11枚からなる紙芝居にまとめています。
略歴
大正5(1916)年、上黒岩生まれ
旧制富岡中学校(今の富岡高校)卒業
昭和40(1965)年、第7次南極観測船艦長(初代「ふじ」艦長)
昭和42(1967)年、第9次南極観測船艦長
その後、海上幕僚監部南極観測支援室長
著作「『ふじ』南極航海記」より
蜜氷群を進む「ふじ」
定着氷に接岸した「ふじ」の荷下ろしを見学するペンギン
南極(オングル島)に立つ著者
南極の昭和基地
同行した特派員が著者の人生観を感じた講義の言葉
「決して急いではならない」
「自然に逆らうな」
「自然を尊敬せよ」
「ただし自然を恐れてはならない」
同特派員が感銘する著者の力
「勝負所の蜜氷群突破の際、二晩一睡もせず頑張り通した芯の強さ」
「東西冷戦下、ソ連の基地訪問をさらりとこなす実行力」
続きは校長室に伝わる本多氏の寄贈品についてです。
続き
本多敏治氏からの寄贈品
第7次隊の後、寄贈された南極の石と写真
箱書きには「南極の不二石 含石榴石変成岩」と書かれています。
これについて、国立極地研究所 南極・北極科学館(東京都立川市)に問い合わせてみたところ次のような説明を受けました。
南極の昭和基地周辺から持ち帰った石は、だいたい片麻(へんま)岩である。白い所は、石英・長石・雲母で、中に透き通った赤紫色の結晶があるとそれを石榴(ざくろ)石が入った片麻岩と言っている。磁石がつくのは黒い岩片に鉄分が含まれれているためである。
肉眼では、石榴石は確認できませんが、30倍のルーペ式顕微鏡で覗くといくつかそれらしきものが確認できました。
(表)
第9次隊の後、寄贈プレート(裏)
石は、校長室に展示してあります。ご覧になりたい方は来校した折、校長室にお寄りください。
【ふるさと学習プログラムとの関連】
6年(総合的な学習の時間:黒岩カルタ)
6年(理科:土地のつくり)
3年(総合的な学習:黒岩はかせになろう)